なぜXJapanはメジャーデビューした?CBSソニーと契約した理由
少し時間をさかのぼって、ⅩJAPAN(X)がCBSソニーとメジャー契約して「BLUE BLOOD」のレコーディングが終えたあたりまで話が戻る。
?1988年4月14日にリリースした「VANISING VISION」の制作秘話、そしてインディーズからメジャーデビューをしていくことに決めた理由をYoshikiが話している。
「これまではマネジメントの全てを自分でやってきたんだけど、その部分を人に任せて音楽活動に専念できるということでメジャーデビューすることを選んでしまったんだけど。」と答えた。そしてTOSHIがHIDEに「HIDEさんは?」と尋ねると、HIDEが「まあ、良い人がいたからねえ。ディレクターで」と答えた。
HIDEの言う「良いディレクター」というのは、CBSソニーの元プロデューサー津田さんのことだ。YoshikiとHIDEの価値観の違いがこのあたりの発言にはっきりと出ている。
(出典:YouTube)
?1989年3月16日の渋谷公会堂ライブの翌日3月17日のインタビューでの4人がアルバム制作についての感想を一人ずつ話している。この日、Taijiは前日の盛大な打ち上げで這っても来られなかったため欠席。( ´艸`)
【「BLUE BLOOD」レコーディングを終えての感想 】
Yoshiki「辛かった。600時間以上かかった。冗談じゃない。自分の場合、完全に自分の世界に入り込まないといけないので」
TOSHI「よっちゃんの世界に僕は完全に主人公にならなきゃならないので非常に難しい。でも時間かけただけあってかなり自信になって、みんなを引きこめちゃうくらいの歌になっている気がする。」
PATA「インディーズの時にかなり苦労したから、十分、辛い中でも結構楽しめた」
HIDE「前のアルバムで腱鞘炎になって自分がこの世界でやって行けるかと本気で悩んだ。今回は苦労したけど、もっと今回は何をしたい、かにをしたいっていうクリエイティブな面を楽しめた。Yoshikiがこういう感じとか断片的なイメージしか言わないから、任された俺は勝手に解釈してそこは「自分の頂いたスペース」なんで育てて、Yoshikiの元に返す。」
Yoshiki「絶対、俺以外の4人とも発想がすごいんですよ。自分だけの世界じゃ懲りかたまっちゃってた。みんなに任せることでいろんなものが出てきてすごい!!」
――ーインタビュアー「不思議なメンバーが集まったね。」
Yoshiki「いえ、集めたんです!!」
――ーインタビュアー「BLUE BLOD」を一枚の絵で表すと?
――ー「メジャーとインディーズ」について。
(出典:YouTube)
アルバム「BLUE BLOOD」の制作とCBSソニーのプロデューサー津田直士さん
Yoshikiが「BLUE BLOOD」の制作を終えてのインタビューで「辛かった」「妥協ができなかった」と繰り返し話をしていたが、おそらく当時のYoshikiのそういう気持ちを一番近いところで理解していた人がプロデュ―サーの津田直士さんだったのだろう。
↓下の文章は、2014年に4月21日に津田直士さんが書かれたものだ。ニコニコチャンネルの「音楽プロデューサー津田直士チャンネル」のHPから引用させていただいた。
読んでいたら事細かにXのレコーディングした時の状況やその当時の津田さんの心境が伝わってきて、感動して心が震えた。当時Xのメンバー5人は、このプロデューサーの津田直士さんを信じて、共に純粋で真っ直ぐな心で信念をもって音楽を創っていた。
【25周年記念特別コラム】Album「BLUE BLOOD」の真実と、これからのクリエイターへの期待
25年前の今日、Xのメジャーデビューアルバム「BLUE BLOOD」がリリースされた。
当時、僕はまだ27才。
ソニーミュージック(当時はCBSソニー)の社員で、入社4年目がスタートしたばかりの僕にとって、この日は、新人ディレクターとして初の作品を世に問う、大切な日でもあった。バンド成功物語として見れば、その日から奇跡の日々が始まり輝く未来につながっていく、とも言えるのだが、現実はもっと深く重く、ある重要な精神の塊がその頃、僕の心に影を落としていた。
そう、その時の僕は、決して明るく浮いていたわけではなかった。
納得のいく圧倒的なアルバムを制作できた、という達成感や安堵と共に、重く深い、ある気持ちと闘いながら、いわば戦闘態勢で日々を過ごしていたのだった。そして当時のことを振り返ってみた結果、その気持ちは「今という時代に、クリエイティブな仕事に携わる人間が、何をすべきか」というテーマの答えにつながるものだと感じた。
だから今回はそのことについて書いてみたいと思う。
平成元年となったこの年、新年早々からX(現 X JAPAN)のメンバーと僕は、信濃町ソニーのスタジオで「BLUE BLOOD」のレコーディングをスタート、それから2ヶ月以上かかってアルバムを完成させた。
このレコーディングで、僕は「ニセモノが多すぎる日本の音楽業界を変えたい」という情熱と「偏見や誤解に満ちたXというバンドに対する評価をこのアルバムで一変させてやる」という意気込み、そして「Xというバンドの限りない可能性を、100年残る音楽作品として完璧な状態で残す」という高い志を、当時の自分が持っていた音楽的な能力を全て注ぎ込んで完遂させるべく、現実と闘っていた。
25年が経ち、XつまりX JAPANが伝説のバンドとなり、YOSHIKIが世界的なアーティストになった今では「BLUE BLOOD」というアルバムやそれぞれの作品の持つ音楽性に対する高い評価も、ごく自然なものになった。
でも、25年前の僕はそんな未来をまだ知らなかった。
Xの限りない可能性に確信はあったけれど、奇跡の日々はまだ始まったばかりで、現実との闘いは非常に厳しいものだった。
思い出すのは、メンバーが紡ぎ出す音や声、演奏に感じ入る、創造の喜びと高まり、それと並行して生じていた、終わりのない闘いを続ける兵士のような苦しさと焦燥感・・・その相矛盾する感覚が延々続く毎日、そんな異常な環境の中でもがいていた自分の内面だ。
その切ないような、苦しいような、天国と地獄を往復しているような感覚の理由を、当時の僕は気づかなかった。
というより、気づけるはずがなかった。
なぜなら、その理由を把握するには、何十万人もの人達が、心からXを必要としてくれるようになる、その年の終わりまで、半年以上の時間が必要だったからだ。
ところで僕は「BLUE BLOOD」のレコーディングをスタートするにあたって、ある決意をしていた。
そして、その決意は誰にも話さなかった。
もし誰かに話したら、僕の考えるレコーディングに支障が生じる可能性があったからだ。僕がその決意をしたのは、Xというバンドへの確信と、当時の音楽業界に対する不満、そして僕自身が大学時代ミュージシャンとしてレコーディングに臨んだ際に感じた疑問からだった。
その決意とは、レコーディングをする上で、メンバーが望むテイクが録れるまで、ストップをかけない、というものだった。
もちろんレコーディングで、無駄に時間だけかけても良い作品にはならない、ということは当然分っていた。だらだらレコーディングしていては、良い作品にはならない。
ただ、妥協は一切したくなかった。
以前、僕がミュージシャンとしてレコーディングに臨んだ際、テイクに納得がいかないまま制作スタッフにストップをかけられる体験を何度もする中で、その根拠に疑問を抱く瞬間が幾度もあった。それは「この程度でいいでしょう」という意図が見える瞬間だった。背景にあるのは、明らかに妥協だ。
それはそのまま、僕のプレイとその演奏パートの重要性、ひいてはレコーディングをしている、その作品の重要性を浮き彫りにしていた。
一方で僕は、欧米の圧倒的なレベルに比べて明らかにレベルの低い、数年すれば消えていってしまうようなニセモノの作品がちゃんと予算をかけて大量に作られている音楽業界の現状にも、大きな不満を持っていた。
当時の僕にとって、Xのメジャーデビューアルバムとなるこの作品は、日本の音楽シーン変えるはずのものだった。
100年以上聴かれる作品になるはずのものだった。
だから、一切の妥協はしたくなかった。
そして、そこまでのエネルギーを傾けた作品を発表して、初めてXというバンドの意味が、正しく伝わるはずだった。
なぜなら、Xの神髄はそのオリジナリティに満ちた圧倒的な音楽性にあるからで、一方、当時のXは逆に音楽性が一切評価されていなかったからだ。
僕の中に、未来へつながる確信の源だった「音楽性」が、周りには最も低く評価されている。
それを覆すのは、まるで天動説が当たり前の世の中で、地動説を唱えるようなものだ。
そういう意味で、僕には新人ディレクターとして初の作品制作が、もう既に崖っぷち、背水の陣であったわけだ。
いずれにしても、僕の密かな決意をベースに1月6日からスタートしたレコーディングは、そのままYOSHIKIを中心にメンバーが持っていた「絶対に妥協はしたくない」という確固たる姿勢とぴったり重なり、新人アーティストのデビューアルバムでありながら、歴史に残る至高の作品を創り上げる、という、普通にはあり得ない目的を持ったレコーディングとなった。
そしてそれは、新人ディレクターの初作品である「BLUE BLOOD」が途方もない制作費をかけたものとなり、売れ行きが芳しくない場合、そのままディレクターとしての責任を問われる、といった大きな賭けになることを意味していた。
当時の僕は、きっとそれまでの自分の半生と、Xというバンドの可能性が、完全にシンクロしていることを察知していたのだと思う。
人生の全てを音楽に懸ける僕の生きかたと、そんな自分にチャンスを与えてくれた、大資本という揺るぎない力を持つソニーミュージック、そして歴史を変える程の力を秘めたXという新しい才能。
その組み合わせで可能な、限界ぎりぎりの勝負が、妥協を一切許さない「BLUE BLOOD」のレコーディングというチャンスだと、僕は本能的に分っていたのだと思う。
もしAlbum「BLUE BLOOD」が手元にあったらジャケットのライナーノーツを見て欲しい。
『僕はバンドを探していた。見たこともないような新しいバンドに出会いたかった。‘87秋、新人発掘の仕事をしていた僕はXと出会った。インディーズ・シーンにさほど期待していなかった僕の予想を裏切って、Xは〝未完の大器″だった。それから半年間、メンバーと酒を飲んだりツアーに同行したりしているうちに僕は確信を持った。オリジナリティーの追求。クリエイティビティーへの努力。ポジティブなパワー。自由な発想と基本的な人間性。僕が探していたバンドだった。僕を奮い立たせてくれたのは、子どものように純粋な5人の人間性と、音楽・エンターテイメントに対するメンバーの吸収力・可能性だった。インディーズNO.1という実績から、Xを完成されたアーティストと見る人が多かったが、僕の考えるXは、まださなぎだった。勝負する相手は外の世界にまだまだたくさんいた。さなぎを孵化させて、日本の音楽シーンに殴り込みをかけるため・・・(以下略)レコーディングが終盤に差しかかった頃、僕が書いた文章だ。
睡眠もろくにとらず、作品を完璧に仕上げることだけしか頭になかった、極限状態の中で書いたことを憶えている。
ここに、あたかも全てを見通したような文体で書かれていることのほとんどが、レコーディング当時にはまだ現実とはなっていない、理想の未来をベースに書かれているのは、そのレコーディングが崖っぷちの中で行われていたことと無関係ではない。
結局、1988年の1月から3月にかけて、Xのメンバーと僕たちは、『未来を創っていた』のだ。
メンバーの努力以外、全く手に入れる方法のない未来を、作品と共に創り、走り始めていたのだ。
だから当時、僕の心には激しい嵐が吹き荒れていた。
その嵐は、レコーディング終了後、甚大な制作費オーバーに関わる始末書を書く、といったような事などではなく、メンバーと共に創った未来を現実にものにするための「闘いの重さ」からくるものだった。
それはきっと「夢に対する責任」のようなものだったのだろう。
やがてライブツアーが始まり、夏が過ぎ、秋が来ると、その未来は急激な勢いで訪れ始めた。
そう、レコーディング中にメンバーと僕たちが創った未来は、運命共同体と化したファンの急増で、どんどん現実になっていったのだった。それは、生んだ作品がちゃんと伝わり、届き始めたことの答えだった。
「BLUE BLOOD」リリース後1年経って、レコーディング中に創った未来は無事、訪れた。
そして、リリースの頃、僕の心に棲みついていた暗い影は、翌年’90の3月12日、日本ゴールドディスク大賞ニューアーティストオブ・ザイヤーのグランプリ受賞で、きれいに消え去った。(以下、省略)
ニコ生放送「音楽プロデューサー津田直士チャンネル」より
https://ch.nicovideo.jp/tsudanaoshi/blomaga
(出典:YouTube)
この素晴らしいX、ⅩJAPANを共に創ってくれた津田さんに感謝でいっぱいの気持ちになる。ずっとⅩJAPANが続いていってほしい。今も30年前も同じⅩJAPAN’S BLOODが流れているのだから。
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